「いやもっと他にやることあるでしょう」
学生の時、老年実習に行って取り上げたいテーマとして「スピリチュアルペイン」を選んだ時、大学の先生から言われたのを思い出しました。
初めてデイサービスで働いた時に、高齢者がスピリチュアルペインを抱えているっていうことを実感として感じたわけですが、当時すでに講義の中で教わっていたことなのかもしれません。
生が終わりに近づいていく時、当たり前にできていたことができなくなっていく時、もう一度、じぶんの人生と向き合う時期なのかもしれません。
ACPとは死に場所を選ぶことじゃない
病院で働いていた時、80代で心臓の手術を受けた方が来られてびっくりしたことがありました。
それは「80代にもなって手術を受けて生きようとするのか」という驚きではなく、「80代でも手術ができる全身状態にあること」とそういう状態でいられる人がいること、にです。
心臓の手術なんて特に全身状態、つまり、他に大きな病気をしていないとか、体が元気でないとむずかしく、体に負担がかかるものなんです。
それが、80代でもできるってすごいな、とおもったんです。
でも、そんなふうに、歳を重ねても治療をどうするかを選べるようになってきた時代でもあります。
ですが。
老いていく過程で、口から食べることができなくなって少しずつ横になって過ごすことが増えて、命を終えていくという過程は自然なことでもあります。
口から食べることができなくなった時、自然な過程の中であってさえ、胃ろうや鼻から管を入れて栄養を入れるという選択肢もあるんです。
施設で過ごす場合、最後まで治療をしてほしいか、もしくは、施設で看取るか、で対応は大きく異なります。
家族と、どのような最期を迎えるかについて話ができていない場合、(多くは「今は元気だからそんなこと考えられない」と言われます。)何かが起きた時に「どうしますか?」と聞いているのが現状です。
でも、ほんとうは、「どこで死にたいですか?」を聞くものではないんです。
あなたは、どのように命を閉じていきたいですか?
親やおじいちゃん・おばあちゃん、もしくは義理の両親の最期をどうするか。
ということよりも、まずは、じぶん、です。
第3者の人生や死に方は、その本人なしでは語れないからです。
つまり、まずはじぶんがどう生きたいか、どういうふうに命を閉じていきたいか、なんです。
元狩猟家で写真家、余命を宣告されたがん患者の幡野広志さんが以前言われていたのは、「余命1年と言われてもそのうち元気で動けるのは半年くらいだ」というようなことです。
正確な数字は違うかもしれないけれど、要は、余命って言われても、残りの人生を考えても思うように動けるのは同じだけの時間じゃない。
動ける時間は、意外と短い。
ってことなんです。
時間は、命です。
この肉体を魂が離れる時、最後に口にしたいひとことはなんでしょうか?
「ありがとう」なのか
「楽しかった」なのか。
多くの人が最期に思うのは「もっと挑戦すれば良かった」と思うらしいです。・・・なんてことはどうでもいいんです。
多くの人がどう思おうが、普通はどんなふうに感じるのが普通と言われようがそんなものは関係ありません。
だって、あなたの人生なんだから。
誰がなんと言おうと知ったこっちゃないんです。
自分だけの答えを見つけよう
わたしたちは、答えを教えてもらうのは得意です。
学校教育の中で、「1+1=2」だと教わり、なんの疑いもなく「1+1=2」として生きてきました。
でも、「1+1」が10にも100にもなることだってあるって知ってますか?
「1+1」がマイナスになることだってあるって知ってますか?
誰かが作った正解を、誰かが思った正論を、鵜呑みにして生きてくるのは得意だったはずなんです。
みんなが口にする常識を、外れることの怖さは、多くの人が感じるはずです。
でも、あなたは、どう思いますか?
自分だけの答えは、外側にはどこにもないんです。
自分の人生の答えは、言うまでもなく、自分の中にしかない。
命をどんなふうに閉じていきたいか、人生をどう生きたいかは、自分で答えを見つけるしかないんです。
後悔しないための人生は、そこからしか始まらない。
あなたは、何を感じて生きていたいですか?
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