「とにかくこのひとの最期を見届けなくちゃ」
開けるのもその扉は重く、扉を開けたものの足がなかなか進まなかったにもかかわらず、ある場所を通りすぎるところから、わたしこのひとの嫁なのかなってくらい、ちゃんと最期を看取りたくて、読み進めていきました。
命の閉じ方のレッスンのはじまり
訪問看護師、森山文則さんが身体の小さな異変に気づいたのは2018年の8月のこと。
(・・・って、ついこのあいだだ・・・。)
200人以上を看取ってきた訪問看護師さんは、どのように命を閉じていくのか。ほぼ正確にわかってしまうじぶんの残された時間を、どのように過ごしていくのか。
キューブラー・ロスの言っていることは結構正しくて、初めは『なぜ自分が』という怒りがあって、その怒りを抱えながら自分は死なないと否認をしたり、なんとか治ろうとして、折り合いながら受け入れていく。そのプロセスっていうのは、周囲があたふたさえしなければ、自然とそうなっていくんだろうなと。
『エンド・オブ・ライフ』佐々涼子
当事者からそのはなしを聞くことができるって、とてつもなく貴重だと思うのです。だって、死にゆく患者さんに、「死の受容はできてますか?」なんて聞けません。
でも、キューブラー・ロスの言ってることは結構ただしい、と言っているのはちょっとだけ意外でした。
本格的に終末期ケアに関わってこないなりに、ときどき参加していた研修なんかでは、キューブラー・ロスの言う受容の段階はきれいに経ていかない、というようなことを聞くことの方が多かったからです。
キューブラー・ロスの「死の受容の5段階」とは、
1.否認 2.怒り 3.取引 4.抑うつ 5.受容
と言われています。
きれいにこの段階をたどっていくわけじゃなく、受容に行かないひともいるし、飛び越えたり、戻ったりしていくひともいる、というようなことを聞いたことがあります。
でも、森山さんは言うのです。
「結構正しい」
「がんちゃん」の言い分
「僕の”がんちゃん”は身体のメッセージを届けるために現れたんです」〜中略〜
森山は、よりいっそう精神世界へと踏み込んでいた。彼の生に対する執着の強さも、彼が選んだ方向性も意外だった。
『エンド・オブ・ライフ』佐々涼子
ドキッとしました。
わたしがSLEになったとき、病はからだの声、そう発信や口にこそしなかったかもしれませんが、実際にはそう思っていたし、思い当たるふしさえあったからです。
心理セラピーを勉強していくと、心とからだはつながっていて、心の奥底の声が症状となって現れることもあるということを聞いたりもします。
訪問看護師のベテランがそう言っていること、そして、それを聞くまわりのひとたちの白けた空気というか、引いている空気が伝わってきて、そんなこと口にしようものなら、わたしもおなじように一歩引いて見られるんだな、とわかってもらえない哀しさを感じました。
「このひとの最期を見届けなくちゃ」
そう、思うようになったのは、このあたりからでした。
スピリチュアルな世界、精神世界って、だめなの?
医療従事者がホリスティック医療や代替医療に惹かれていくって良くないことなの?
西洋医学では解明されていないこともたくさんあって、自然療法にだって可能性はあると思っています。治療になるかどうかはよくわからないけど、西洋医学では原因不明でも、東洋医学ではできる治療もあったりして。
そういうものにのぞみをかけた時期が、わたしにもあったから、森山さんの気持ちは完全にわかるわけではないけれど、なんとなくわかって、そして、痛い。
命の閉じ方のレッスン
「もし死んだら」と「もし治ったら」と、揺らぎながらも、すこしずつ、生命を閉じる準備をしていく森山さん。
玉置妙憂さんの講義のなかで、今の妙憂さんの定義する「スピリチュアルケア」とは、
自分が自分と折り合いをつけていく。その作業を見守るのがスピリチュアルケア。
と言われていました。
まさに、森山さんは、佐々さんや家族や同僚と関わりながら、スピリチュアルケアを受けていたんじゃないかな、と思ったのです。
森山さんはとても恵まれていた。
それは、元気なときからまわりのひとを大切にしてきたから、まるごとの森山さんを受け止めてもらえていたんじゃないかな、と。そして、そのまるごと受け止めてもらえたからこそ、きっと受容するところまでたどり着けたんだろうし、まわりにもたくさんの贈り物ができたんだと思うんです。
生きたようにしか、最期は迎えられないからね。
『エンド・オブ・ライフ』佐々涼子
生きたように、最期を迎えた森山さん。こんなひとに、生きてるうちに出会いだかった。会いに生きたかったと思いました。
空に向かって大声でさけびたい。
\\ 森山さん、ありがとーーーーーーーーーーーーーー!!! //
コメント