「組織に戻りたくない・・・」
じぶんの仕事をしたい。
その夢を叶えるべく、ある時期、正規職員としてはたらくことをやめました。
その後、歩いていく道がじぶんがやりたかったこととずれてしまったこともあり、もう一度就職してからやり直すことにしました。
それでも一度、組織を離れてみると、組織に戻りたくない、そんな気持ちが抑えきれなくて、その結果再就職もうまくいきませんでした。
でも今は、高齢者施設の正規職員として、組織の中で、はたらいています。
やりたいことをやるためには、完全フリーランスじゃない方がいいのかもしれない、そんなことも考えています。
じぶんの仕事がしたい、そんなわたしが、組織ではたらくのには理由があるんです。
じぶんの仕事がしたい。
自分の仕事をしたい。そうおもっていたのは看護師として働きはじめて2年目、か3年目の頃でした。
便秘の原因は何が考えられるだろうか、と、患者さんのからだの状態がどんなふうになっているのかを、関連図と言う、病気や症状がどんなふうにつながっているのか、この病気のどの症状がどんなふうに影響して、便秘になっているのかもしれない、みたいなつながりの図をひたすら書いた、学生時代。
入院してからだを動かす量が減っているから、腸の動きも弱くなって便秘になっているのかもしれない。
飲む水の量が減っているから、便が固くなっているのかもしれない。
実際どれくらいの水を飲んでいるのかな?
じゃあどれくらい水を飲むように伝えたらいいのかな。
お腹のマッサージをしてみたら、腸の動きを促せるかもしれないよね。
できるだけ薬を使わないでその症状が軽くなる方法はないだろうかと、考えていました。それこそが看護なんだよ、というような感じで、看護の理想を身につけた4年間。
ところが、現場で働いてみると、
\ 不眠に眠剤、便秘に下剤! /
のオンパレード。
わたしが習った【 看護 】は何処へやら。
看護にできることはたくさんあると教わってきたにもかかわらず、できることは薬を使うことばかり。
今になったらその理由もわかります。
最初の病棟は、がんの治療をしている患者さんが多くいて、抗がん剤の副作用として腸の動きを弱くする薬があるんです。
腸閉塞の可能性も考えなくちゃいけない中で、「おなかのマッサージをして様子を見ましょう♪」なんてことはできないんです。
でも、「理想の看護」を習ったばかりの新人看護師には、わからなかったんですよね。
それに、たくさんの患者さんを受け持ち、分刻みでやるべきことに追われ、話を聞いてほしい患者さんの元を「また来ますね」と言って立ち去るばかりの毎日。
病棟業務に追われる毎日の中で、本当は、ゆっくり話を聞いたり、不安な気持ちを聞きながら足浴をしたり、そんなケアがしたい。
でも、病院で働いている以上は好きなケアだけしているわけにはいかない。
じぶんがやりたいことをやっていくためには、じぶんで仕事を作らないといけないのかもしれないな、そんなふうに考えるようになっていました。
やりたいことをするためには、通うための場が必要なのかも
じぶんの仕事がしたい、そうおもっていて、作らないとないのかもしれない、そう考えていたことは、病気になったひとたちの心に寄り添いたい、ということでした。
このブログの理念的な部分でもある、病を得ても、じぶんらしく生きるのをお手伝いしたい。
そのためには、誰にも言えない辛さを吐き出せる場所が必要だともおもっています。
余命宣告がされるような終末期の時期には、なんで生きてるんだろう、とか、なんで生まれてきたんだろう、とか、死んだらどうなるんだろう、とか、答えのない問いが生まれたり、答えが見つからずに苦しくなったりすることがあります。
体の痛みや、心の痛み、それまで果たしていた社会的役割がこなせなくなったことに対する社会的な痛みなどに加え、スピリチュアルな痛み、とも言われます。
生きている意味、みたいなもの。
それが見出せなかったとしても、少しでもそういう痛みに寄り添って、残された時間をその人が生きたいように生きるためのお手伝いがしたいと思っていました、もちろん、今も。
ホスピスでは、そういう痛みに寄り添う人として、チャプレンさんがいらっしゃる場所もあります。
でも、わたしがやりたいのはチャプレンではないかなとも感じていたんです。
病棟で働いていて、毎日少しでも顔を合わせるから、ちょっとしたケアや関わり、雑談をするからこそ、許せる心というか、開けられる扉があるんじゃないかな、というのを感じていました。
じぶんが病気になって、残された時間があとわずかだと知ったとき、
「◯曜日にカウンセラーさんが来るから、そこで聞いてもらうといいですよ」
と言われて、話せるかな、と思うと、微妙だな、とおもうんです。
顔がわかるからこそ、話せることがある。
いつもいる人だからこそ、心を開けることもある。
だから、今は高齢者施設という、組織のなかではたらいています。
いつもいる人、そばにいてくれる人、という存在としていることも必要なのかなと思うからこそ、組織に属しています。
より、良い時間を過ごせるようにするにはどうしたらいいか、はまだまだ模索する日々です。
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