職場の方で案内があった、「看取りにおけるメンタルケア研修」に参加してきました。
正直なところ、紹介文を読んでもあまり気は進まなかったのですが、仲の良い介護士さんが行くというのと、仕事を抜けられるというので行ってきました。
気が進まずに参加したスピリチュアルケア研修でしたが、わたしがやりたかったのはここだった、と思い出しました。
講師は、看護師で10年前に在宅で夫を看取ってその後出家された玉置妙憂さん。テレビでも拝見したことがあるはず。こんな方の公演を聞けるのかと、始まってからびっくりどきどきでした。
現代医学がスピリチュアルペインを増強している
現代医学が進歩したことで、延命至上主義になったり、「死は負け」みたいなところがあって、とにかく死なないようにと手をつくしてきました。けれど、その影響で、寿命が尽きるときにまで、生命の長さを決める選択を迫られることになったんですよね。
胃ろうや鼻からの栄養チューブなんかがその代表で、選択するということは迷うこと。どちらを選択しても「これで良かったんだろうか」と後悔や葛藤が出てきます。
にもかかわらず、医療はその痛みに対するケアはしてこなかった。
90代のおばあちゃんが食べられなくなって、その生命をしまう場面で、家族で話し合いをして、胃ろうをしないと決めたのに、先生に「胃ろうをしないということは、医療的にどうなりますか?」と聞いた答えが「餓死」だった。
家族は、おそれおののいて、翌日胃ろうをすることにしたと言ってきたそうです。もちろん、結局その後、「これで良かったんだろうか」と家族は葛藤を抱えることになったそうです。
この先生がどうこうではなく、生命に関わる医療職として、ことばの使い方、選び方はほんとうに重要だと、日々感じています。ことばを知っていないといけないし、文脈次第で受ける印象も変わってしまう。日々磨いていかないといけない感覚と、知識だなと感じています。
スピリチュアルペインには答えがない
「なんのために生きてるのかな」
「早く逝きたいのにお迎えがこない」
高齢者と接する日常の中で、割とよく耳にするのがこういう疑問形として届くスピリチュアルペインです。
スピリチュアルペインには2つの特徴があって、
①答えがない。
②聞いた人もダメージを受ける。
んだそうです。
答えがないんだから、答えを教えることがわたしたちの役割なんじゃなくて、安定してそこにいる、在ることが、スピリチュアルペインを抱えてそれを吐き出そうとしているひとにとって大切なんです。
考えたこともないことを聞かれて動揺していては、その動揺は伝わってしまう。でも、安定してそこにいれば、その安定感は空気を伝ってダイレクトに伝わります。
下手に励ましたり、ごまかしたり、安易にHOW TOの提案をしたりせず、表面上のことばには出てこない奥底の苦しみを表出することが大切なのかなと感じました。
まずは自分を満たすことが大切
「自利をもって他利を為せ」
お釈迦様は言ったそうです。
「まずは自身のケアをし、自分のコップを満たしてから、他者のケアを行いなさい」と。
心理学やカウンセリングのセミナーでも言われることが、スピリチュアルケアにおいても、やはり大切なんだなぁと感じました。
スピリチュアルペインは、答えがない上に、聞いた側もダメージを受けるんです。
ケアされる側もケアされることが必要。
ケアするわたしたちも、しっかりケアされる場をつくることが必要だなとあらためて感じました。
スピリチュアルケアがしたかった
「やりたいことができない」
ひとりの患者さんに5分も時間をかけられなかった1〜3年目のころの病棟業務。業務が多すぎて、ゆっくり患者さんのそばにいられない。
やりたかったことができないもどかしさに、一旦看護師を離れることにしたのがこの頃です。
まわりまわって、やりたいことってなんだろうってなかなかうまく言語化できなかったけど、わたしがやりたかったのは、スピリチュアルケアだったと気が付きました。
遠回りしてもきっと、魂が望む場所にはたどり着くもの。
ゆっくりとで大丈夫だから、光の射す方へ進んでいけばいいと思います。
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