ひさしぶりにモヤッとした。
「あなたのために変えてあげるね。」
そう言われて変わった仕事の役割分担。
ありがとうございます! と言ってよく見てみると、結局はその人の得のために変わったことは明らかでした。
・・・何それ。
ひさしぶりにもやっとしました。
感情を感じてみる。
ヨガの目的は、「心の動きを止滅すること」と言われていますが、感情は動くもの。感情を感じないように蓋をすると、何も感じなくなり鬱になってしまいます。
大事なのは、心が動いても戻ってこれること。
ここ最近は、おかげで、「イラッ」としても穏やかな感情に戻ってこれるようになりました。
だから、イライラを引きずることはあまりなくなっています。
だけど、ひさしぶりにもやっとした感情がありました。
「モヤッ」ってなんだろう。
心の中を観察してみると、その分担自体は別になんとも思わなかったんです。むしろ自分の割り当てられた役割を見るより前に、その人の請け負った役割を見て、「モヤッ」が発生した。
「他の業務で大変だから、ここの担当変わってくれる?」
そう言われれば、嫌ですなんて言うつもりは毛頭ない。
でも、「あなたのために」のような感じで言われたのが引っかかったんです。
あなたのために、って何?
自分のためでしょ?
正直、恩着せがましい、と感じました。
恩着せがましい、ってどういうことだろう。
もう少し掘り下げてみると、告白してもないのに振られたみたいな、損したみたいな気持ちになっていることに気がつきました。
そうか、損した気分になってるんだ。
借りを作ったみたいな、それも、勝手に。そんな、損した気持ちになったことにモヤモヤしているんだな、ということに気がついたんです。
さて、これはヨガ的にはどう考えたらいいんだろうか、と考えてみました。
あの人も、わたしも、エゴが働いている。
正直に言うと、
「あの人、エゴが働いてるのね〜」とほほえんでいました。
エゴとは、人より上に立とうとする心の働き、もしくは、誰かを自分より上に感じて妬む心の働き、と言われています。
「あなたのためにしてあげてる」と言う建前をかざしている時点で、上に立とうとしていて、そして自分の良い方を選んでいるのが、エゴが働いているということ。
他人のエゴに気づいたら、ほほえむ。
そう学んでいたので、エゴが働いているんだねー、と思っていました。
でも、それはわたしの中でも働いていたことだったんですよね。
損している。
この感覚自体が、なにかが損なわれたような気分になっているんだなってことに、気がついたんです。
ぬん先生のテキストに書いてありました。
物が失われても、人からの評価が失われても、自分は何ひとつ損なわれない。
自分が自分自身の中にある豊かさや幸せを認めていれば、自分は変わらず自分らしくあることができる。
自分はもうすでに満たされていることを知ること。
誰にも奪われることのない、豊かさが自分の中にあるんだってことを感じていれば、信じていられれば、何があっても損しないし、奪われない。
ただ、自分らしくあればいい。
そっかーーー、何も奪われてないんだな。
そう思えるようになったら、心がホッと緩んでいきました。
「ま、いっか」で済みそうだったけど、掘り下げてみた理由
実は、このできごと、瞑想したり、モヤモヤをノートに書き出したりしてみたら、「ま、いっか」で、忘れていきそうだなってことは感じていました。
そんなに強く感情が揺さぶられたわけではなかったからです。
じゃあ、なんでこんなふうに掘り下げてみたのか。
それは、
心の扉を閉める癖が出てきそうな感覚を感じていたから、です。
そうなんです。
「あ、この人、信用できない」
とか
「え、こんなこと言うの? ちょっと無理かも」
と思ったら、心の扉をパタンと閉める。
なんなら鍵をかけておく。
この癖、良くないよな、と感じていました。
そうしていると、つながりを閉ざしてしまうし、その人のいいところも見えなくなってしまうし、その癖があることで、つながっていたい人との扉さえも閉めてしまいがちになるからです。
この曲が発動しそうだなと思ったので、ちょっと掘り下げてみることにしました。
ヨガは暮らしに生かしてこそ、活きる。
それが、昨日の記事でも書いた、自分の足で歩く、ということだと思うから。
▶︎参考記事:ヨガ哲学ワークショップ
損してなんかないし、奪われてもいない。
相手にそういう言い方をさせていたのは、相手のエゴだし、損した! って感じていたのは、わたしのエゴ。
わたしはわたしで、何も欠けることもないし、奪われることもない。
また、ただただ淡々とじぶんを満たしてあげればいい。それだけ。
困難や嫌な出来事、心がざわついた時こそ、どうヨガを生かすか! ができる時。
わくわくしながら乗り越えていこうと思います。
今日もHappyないちにちになりますように。
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