「じゃあそれでいいんじゃないですか」
朝令暮改のような思いつきの提案と、自己中心的とも思える提案に、それでいいわけがないと思いながらも、言ってしまった。
どちらも、わたしよりも年齢がはるかに上で、権力もあるひとたちの問いかけに対し、したがったというよりも、どちらかというと、シャッターを下ろした、に近い。
結局、看護職としての意見としては、“それでいいわけがない”ので、上司が話してくれて、どちらの提案も通ることなく決着がついた。
話してもムダ、の奥にあったもの。
良くなかったな。
どちらも、上司が代わりに話してくれて決着がついたけれど、わたし自身の対応としては良くなかったよな、と思ったのです。
正直、“それでいいわけがない”方になったとしても、急に何かが起きるわけではなく、ただ、全体としてリスクが少し上がるな、というくらいではありました。
だから、そうなってもいいや、という気持ちがないわけでもありませんでした。
でも、どちらも高齢者施設での感染管理の話で、感染管理に関わるようになってこの1年。家に帰っても調べ物をしたり、勉強をしたり、大きい本屋さんがある場所に行った時にはその分野のわかりやすそうな本を探し、とにかくプライベートの時間をかなり割いてきました。
感染対策ひとつを変えるかどうかを考える時にも、正しい情報はどれか、どこから出ている情報が正しくて、それはちゃんと新しいものなのか、情報さえもちゃんとそれが根拠として成立するかどうかを調べるのに、1ヶ月くらいはかかります。
そんなふうにして、かなりの時間を費やして調べた結果、思いつきでの発言を聞いたりすると一気にやる気がなくなってしまう。
もう、いいか。
わかってもらえない人に話してもムダ。
見ているところが違う人に、どれだけ必要性を話してもわかってもらえない。そんなところにエネルギーを使うのももったいない。
感染管理に関わるようになってから疲弊していたこともあって、そんなふうに思うようになっていました。
でも、その奥には、わたしのこころの癖があったことに気づいたんです。
どうせわかってもらえない、という前提。
このできごとの奥に何があるんだろう、とこころの動きを観察してみたところ、あることばが出てきました。
それが、
「わかってもらえない」
です。
「あ、わかってもらえないんだ。ならいいや」と、こころの扉をパタン、と閉めてしまう癖、それこそ、シャッターを下ろしてしまう癖というのがわたしの中にあります。
今でもときどき出てきて、「伝えてもわかってもらえない、だったらもうこの人には何も話さない」と、じぶんの中に閉じこもってしまうことが、たまにある。
そんな時には、ひたすらじぶんをケアして、労って、ノートにブラックな気持ちを書き出して、吐き出して、エネルギーが回復してきたら、扉を開けて、外に出ていく、という感じで対処していました。
でも、わかってもらいたい話をするときは、これからきっと出てくる。
じぶんが必要だと思うことをしていく時、相手はそんなこと思ってもみてないわけで、わかってもらえなくて当たり前。
見ている世界が違う相手に、伝えていかなきゃいけないこともたくさんある。
その度に、「もういいです」と扉を閉めてしまっては、じぶんが先に進めない。
そう思ったときに、これはちゃんと解決しなくちゃ、とおもったのです。
扉を閉めない方法を、見つけなくちゃ、と。
扉を閉めないためにできること。
朝令暮改のような思いつきの提案と、自己中心的とも思える提案に、それでいいわけがないと思いながらも、言ってしまった。
どちらも、提案そのものが、それでいいわけがないとすぐにわかるものだったから、余計にすぐにイラッとしてしまったんです。
すぐにそれでいいわけないとわかるほど、明らかにピントがずれたり自己中心的だったりする提案をする相手に対し、この人に言ってもわかってもらえない、というじぶんの中にある前提が顔を出したんです。
相手に対して「わかってもらえない」と感じる。
世界は投影でできています。
投影とはこころの中を映し出しているということ。
「わかってもらえない」とおもっている、ということは、
じぶんがじぶんに対して、わかってもらえない、と思っている。
ということなんです。
あらー。
ジャーナリングとかもして、思いも吐き出しているつもりだったし、だいぶじぶんと仲良くなってこれていると思ったのに、わかってあげていなかった。
たしかに、時間がない、とかでやりたいことを後回しにしてしまうこともあります。じぶんの素直な気持ちをちゃんとうけとめて、わかってあげること、尊重することをもう少し丁寧にしていこうと思います。
小さな違和感を無視しないこと。
か細い小さな本音の声に耳を傾けること。
それをノートに書き出すこと。
それをテーマにして、しばらく過ごしていってみます。
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