「病院を受診しますか?」
施設では、入居されている方の具合が悪くなったとき、ご家族の方に必ず連絡をします。
事前に、「病院の受診希望はありません」と言われていても、気持ちが揺らぐことはあるし、また、状態をお伝えするためにもまずはご家族に連絡します。
でも、ほんとうに大切なのは、病院に行くか行かないかではないんです。
延命をするか、しないか。・・・ではない。
「わたしは心マしなくていいや。挿管もいいかな」
「うちはねー明日何かあっても何もしないって話してるんだよね。母とも話して、同じって言ってる」
病院で働いていると、職場の同僚とそんな話をすることはよくありました。
「心マ」というのは、心臓マッサージのことで、「挿管」というのは、口から管を入れて人工呼吸器につながっている状態になるということ。
口から入った管は喉の奥で風船を膨らませ、呼吸する空気が管の外に逃げないようにします。つまり、喉に何かが詰まっているような感覚は残っています。
今は少しずつ医療現場も変わってきていますが、当時は、管を抜いてしまうと命の危険があるため、管を抜いてしまわないように、手首とベッド柵を紐で繋いで手が届かないようにしていました。
呼吸ができないから管を入れているので、突然抜いてしまうと呼吸ができなくなってしまう可能性もあるし、風船がついたまま引き抜くことで喉が浮腫んでしまうと気道が狭くなったり詰まってしまたりする可能性もあるからです。
他にも、足の付け根から太い管を入れて心臓の動きを助けたり、腎臓の代わりに透析をしたり・・・。
治療に必要な大事な管は抜けてはいけないから、手足の固定をされることもあるし、暴れると危険だから、その度に落ち着くように薬を入れられます。
命が助かる代償として、そこを乗り越える辛さを目の当たりにしてきた、同僚とは、延命をするかしないかの話はよくしていました。
高齢者施設でも、入居者の方が具合が悪くなったとき、病院に行くかどうかをご家族へ連絡して確認します。
でも、本当に大切なのは、
延命をするか、しないかではないんです。
「どう生きたいか」を見つめ直す。
「死」について話をすることはできたとしても、「自分が死ぬとき」の話をすることや「親が死ぬとき」の話をすることは、日常会話ではなかなかないかもしれません。
今でも高齢者世代は死についての話をすることは不吉であるし、不謹慎であるという考えの人が多いのも事実です。
実際、ふつうに暮らしていると、なかなかひとが死ぬ場面にも出会わないし、死にそうな人を見ることもありません。
赤ちゃんが生まれる場面を見ることがないのと同じで、「生」も「死」も、日常の暮らしの中からは遠ざかっているのが現状です。
でも、人が死ぬのは100%確実だし、わたしも、あなたも、いずれ死にます。
その時、どんなふうに命を閉じていくか。
どんな命の閉じ方だったら、自分の人生は生きてて良かった、と思えますか?
そんなことを考える時間を作ることは、「死」を迎えるのが確実であるわたしたちには必要なのかなと思うんです。
80代でがんと診断されて、手術をするかしないか。
その判断は、自分の価値観がどうかによって左右されます。(もちろん病状やその人の体の状態なんかによってもできる治療は変わってきます)
▶︎参考記事:どう生きてきたか。
そんなの、今はわからない。
元気なうちは、自分が死ぬ時のことなんて考えられないかもしれません。
でも、人は生きてきたようにしか死ねません。
命を終えるときにどんな気持ちで終えたいか、どんなふうに見送ってほしいか、どんなふうに大切な人とお別れをしたいか。
そこには正解はなくて、「正しい」も「常識」も教科書に書いてある答えなんていうものはないんです。
あるのは、あなたがどうしたいか、だけなんです。
あなたがどんなふうに命を終えたいか。
あなたが大切な人とどんなふうにお別れをしたいか。
そうするために、
あなたが、今、どう生きていくか。
そこに気がつくきっかけになれればいいなと思っています。
「いっぺん死んでみるワークショップ」開催しました。
ご感想をいただきましたので、掲載しておきます。
大切な人とのお別れを経験し、いっぺん死んでみたご感想、きっとあなたに気づきを与えてくれると思います。
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