「え! わたしの分は作らなくていいのに・・・!」
朝さんぽから帰ると、ふだんは意地でも料理を作らない父が作ったピザがありました。今にも喉から出そうなそのことばを、必死で食い止め、「ありがとう・・・」とひとこと言うのが精一杯でした。
不器用な愛情表現
わたしは今、痛い膝をかばいながらも忙しく働く母と、うまくなじめない補聴器を耳にぶら下げ、読めない空気を必死に読もうとする父と、3人で暮らしています。
家族と暮らすのは3回目で、高校卒業と当時にひとり暮らしを始めたので、家族と暮らすよりもひとりで暮らしていた時間の方が長くなりました。
だから、両親と暮らし始めた頃は、家族のリズムに合わせることが馴染めなかったり、ひとりの時間がとれないことで気を緩めるじかんが見つけられなくて、ひたすらストレスを感じていました。
ズボラなくせに、こだわりもそれなりに強い。
独身ひとり暮らしでいれば、夜ご飯を誰かと食べに出ることもあるし、買い物をして夜遅くに帰宅することもふつうでした。
それが一変、夜7時には真っ暗な世界です。
実家は街灯のない、超ド級の田舎で、夜9時に帰ってくるなんてありえない世界です。
それでも少しずつそんな暮らしにも慣れてきました。
「家族とはこうあるべき」みたいな勝手に作り上げていた理想も、手放し、家族とはいえある程度の距離はあってもいいものだ、というほどよい距離感を見つけることで、なんとか慣れてきたような感じです。
それが、母が旅行に行ったある日の朝。
いつもはじぶんの分しか作らない朝ごはんを、作ってくれた父。
その日は、わたしは仕事が休みで、朝さんぽから帰ってきたら、じぶんの体の感覚で何を食べようか考えて、ゆったりとした朝ごはんにしよう、とうきうきしながら帰ってきたのです。
ところが、食パンにザク切りの玉ねぎととろけるチーズが乗せられたピザが出てきたんです。
朝ごはんを何にしよう〜と考えるたのしい時間が一瞬にして消え、差し出されたごつ目の朝ごはんに、いろんな意味で絶句したのでした。
正直、ほっといてくれたらいいのに・・・とイラっとするやら悲しいやらで、なんともいえない気持ちになりましたが、ふだんは意地でも料理をしない父が、母が不在時にじぶんも料理に参加せねば、と作ったのだろうことは容易に想像できたので、ありがたくいただきました。
そんなところに、父の不器用な愛も感じるのです。
客観的に見ると見えるもの
ほんっとうに、うざいし重い。
ほっといてくれ、と40過ぎても何度おもっただろう、という感じです。
でも、重くてうざくて受け止めきれないそんなややこしいものも、外から見るとものすごく愛されてるじゃんって、わかるんですよね。
ああ、もう本当に愛されてるじゃん、って。
でも、その愛の重さもうざいって感じる気持ちもわかる。
でも、それがどれだけ愛されてるってことなんだってことをどっちサイドからも痛いくらいに感じて号泣してしまったのが、「すずめの戸締まり」でした。
目の前の人生に必死になって、親の愛情を重くてうざく感じてしまう。
払い落としても、振り払っても、消えない愛をひたすら感じるのって、この映画の中の特別なことじゃなく、日常のじぶんでもあることだし感じられることでもありますよね。
「さん」づけと敬語にキュン死。
新海誠監督の「すずめの戸締まり」。
おすすめ、と聞いたから、ちょうど病院受診のタイミングで観に行けそうだったから、というくらいの関心度で観たのですが、想像以上に良かったです。
「君の名は」とか、難しかった印象が強くて、今回も難しそうだな、とおもっていました。
でも、けっこう号泣ポイントも多くて、それでいて、アニメーション映画にありがちな、出会ったばかりなのに仲良くなって・・・みたいなのがないところが、アラフォーなわたしにはとても好印象でした。どんなだ。
いやいや、よくあるじゃないですか。
名前呼び捨てにしちゃって、いやさっき出会ったばっかりですよね? みたいなの。
40年以上も生きてきて、そんなのないことくらい体感してきてますからね。
それが、この映画にはなくて。
最後まで、「さん」づけで呼び合うんです。
ああ、もう素敵じゃないですか。
「さん」づけなのに、敬語、なのに、というか、「さん」づけなところにもうときめいちゃいました。久しぶりにときめいた。ときめいた、相手は、椅子に、だが。(映画参照)
とにかくもうちょっと浸っていたい、そんな映画に出会えた今週は、がんばったごほうびがもらえたみたいにしあわせです。
始まったばかりの「すずめの戸締まり」、良かったらぜひ観てみてください◎
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